トライアル人生の始まりVol2

第一話

第2の人生のはじまり・・・

高3の受験シーズン、進学するか又は就職するかどちらかを決めないといけない。工業高校に通っていた為、同級生のほとんどが就職を選んでいた。

学校には沢山の求人がきていて先生達もとても親身に選らんでくれていた。友達やクラスメイトが就職先が決まっていく中で自分だけが決まらない… それはやりたいと思う仕事がないからだ。 担任からは何度も呼び出され「お前はこれからどうするんだ⁉」と私より担任の方が悩んでいたのではないだろうか。

勿論、焦りはあったが自分のやりたい事はトライアルと自転車関係の仕事に就く事。だから担任には自分で探します!と毎回伝えていた。

理想は大会遠征がしやすい地域で自転車屋さんで働くことが一番の理想。

ということでサイクルスポーツやバイシクルクラブという自転車雑誌に掲載されてる全国の自転車店を片っ端から電話し「求人募集してませんか?」と一軒一軒連絡しては断られの繰り返しで50件ぐらいは連絡したと思う。

もう地元で働くしかないのか…と半分諦めていたとき、自転車雑誌に「求人募集」の広告が。すぐに電話し、まだ募集してますか?と尋ねると「一度面接したいので来れますか?」と返答が。 学生の身分でいつでも大丈夫です!と返事をし学校にも許可を貰い面接へ。 

その面接先は熊本からだいぶ離れた東大阪市。夜間高速バスで制服着て行ったのをよく覚えている。周りに田んぼや畑しかない田舎暮らしに慣れた環境から初めての大阪は都会そのもの。一人で地下鉄に乗った時もドキドキした事を思い出す。

面接先に到着し家族構成や学校生活など聞かれ最後に社長から手の平を見せて欲しいと言われいわれるがままに。 「良し春から宜しく!」という言葉であっさりと決まってしまった。 その会社はチタンを得意とした自転車のフレームや車椅子、熱交換器や梯子といった金属加工の会社。

親も担任もひとまず安心。

そして高校も卒業し3月の下旬、親元を離れ大阪へ。着慣れないスーツで会社へ挨拶。右も左も分からない状況でなにもない借りたマンションで一人寂しく涙した夜が懐かしくもある。

就職して数日、トライアルバイクで通勤していたのだが、会社の駐輪場に止めていたトラ車が無い… ZUNOWというフレームでオーダーしてもらったフレームである。私の事を応援してくれていた地元のショップさんが、わざわざ専用車をオーダーしてくれた大切なトラ車である。そんな貴重なバイクが盗難にあい、結局未だ見つからず… 大阪の怖さを初めて知った時でもあった。

マスターズ昇格もあり、さぁこれからだって時の出来事でショックが大きかった。余りにもショックを受けていたので会社の自転車好きの先輩が、なんと私の為にチタンでフレームを作ってくれた。フレームサイズはやや大きかったが、なにより私の為に用意してくれた事がとても嬉しかった。 

それからというもの、毎朝会社近くの公園で1時間程練習し、8時には出勤。お昼休みも飯抜きで練習し、残業の多かった会社だったが、夜中にも練習。アホみたいに乗っていたと思う。公園近所の方達もいつしか応援してくれるようになり、散歩してる人達からも兄ちゃん頑張ってや~と声がかかるようになった。

会社ではTig溶接の担当だったので、チタンの溶接は意外と得意になってた。

ある日、会社の社長に自分のフレームを作らせて欲しいと尋ねると、会社は遊ぶとこではない!とお叱り受けたが、次回の大会で入賞すれば作っても良いと社長との賭けがはじまった。そして全日本の大会で見事に入賞を果たし、社長のデスクの真中にトロフィーを置いてタイムカードを押しに行った。  

社内放送で社長自ら私を呼び出し、2日で自分のフレームを作りなさい!と。

すぐに図面を書き社長に提出。会社の先輩達もつき旋盤や曲げ加工なども教えてくれた。フレームはなんとあのMONTYと同じタイミングでシート無しのフレームを試みた。リアエンド周りを特徴的にしたかったので今でも気にってる。

それからまた気合が入り練習に励む。とにかくダニエルがしやすく1999年の世界戦板取で初開催となったバトルダニエル。外国人選手にも負けることなく初代世界チャンプに。このフレームのおかげだ。

競技終了後に写真を撮らせて欲しいとおっちゃん達に囲まれた。しかも私の写真ではなく、このフレームの写真をやたらと撮るおっちゃんがいて、この先に私の人生を変える出会いでもあったのだ。

続きはまたそのうち・・・