トライアル人生の始まり

小6の時に親から買ってもらったMTB(ATB)が丸石サイクルのBLACK EAGLE。
確か定価5万以下の安いMTBだったけど、うちの家庭内事情では高級な自転車だったと思う…。
このバイクが私の初めて乗るトライアルバイクになった訳である。
元々、私のおじさんがMOTOバイクのトライアルをやっていたのでトライアルという競技は知ってたし当時スタジアムトライアルというインドアのショーもその叔父から連れられて観に行っていた。
そのせいか、子供の頃から単車のトライアル競技をやってみたいという希望を抱いていた。しかも私のトライアルは競技というよりエンターテイメントショーなのだ。

初めてのMTBを購入した時に一緒に付いてた付録のようなものにウイリーやジャックナイフ、丸太越えなどのやり方が写真、解説付きで同梱されてたので見よう見真似で練習をやってみた。
隣の家に住む2つ上の先輩が同じようなMTBを持っていて、なぜかその付録を見ながら一緒に練習するようになった。

私が中学生になり、自転車という乗り物に興味を示し色んな自転車屋を回ってはカタログなどを沢山貰い、オプションパーツなどを眺めては勝手に想像したり、学習ノートに自分乗ってるMTBを描いてはパーツを装着して妄想するなど、チャリバカな学生だったと思う。

その頃、TV番組で独占!サイクルスポーツというなぎら健壱司会の番組があっていて、競輪、ロードレース、シクロ、XC、DH、BMX、そしてトライアルも取り上げられた総合的な自転車番組をやっていた。
その時、芸人さんがトライアルに挑戦という内容でBIU会長のH野さん、そしてベルギーのライダー「チェリー・クリンケンべルグ」
が講師として教えていたのだ。
その時にダニエルをやっていたのをみて衝撃を受けた。
ウイリーしたまま飛んでるし、しかも岩の上を前輪上げたままでウサギのように飛んでいるではないか!
そしてその何日か後に同番組で板取村での初の世界選手権日本大会の様子を取り上げられていた。
もうその年は興奮状態で今の自分の原点だったのかもしれない。

ある日ダニエルをやってる自分の夢をみて次の日にやってみたら、それがなんと出来たのである。
ウソのような本当に話。しかも後跳びではなく、漕ぎ入れ前跳びのダニエルが出来た。

翌年ぐらいに九州でトライアルの草大会が行われた。
当時IRCエルガト開発兼、全日本26インチトップクラスの久米田氏達の主催による大会だった。
26MONTYに跨り、上下MONTYのジャージを着こなした久米田氏のライディングを間近でみた時も度肝を抜かれたような印象でとにかく尊敬の眼差しで観ていたと思う。
MTBの大会もその時が初めてだったので、緊張でまともに走ることすら出来なかった。
結果もその時どうだったか記憶にない…

益々、トライアルに興味を示し、全日本の大会などにも出てみたいと思うようになった。
しかし、その時はまだ相変わらず丸石のブラックイーグルで、ブレーキは当然カンチブレーキ。
リングガードなども存在はしてたようだが、全く情報がない為、スプロケットを削り落としてそれをガードにして役目を果たしていた。

私が中3になり、相変わらずチャリバカで勉強もせず自転車に乗って日々を過ごしていた訳だが、またまた九州でXCのレースがあるということで
行きつけの自転車ショップを出入りする仲間達に誘われ、応援という名目で同行。

しかし、その時にまた衝撃的な出会いが。

そのレースになんと当時スペシャライズドチームに加入してたオカッピーこと岡村周治選手が参戦していた。
大会終了後、岡村選手のDEMOがあり、やはり魅せるのがとても上手い!
話かけてみるととても気さくで、コツなども丁寧に教えてくれた。
その時言ってくれた言葉が「来年、九州でも全日本選手権があるから出ておいでよ。待ってるよ!」
その言葉がとても嬉しく、励みになった。

それからまた一人でもう特訓に入る。

バイクは相変わらずクロモリのブラックイーグル。12Kgぐらいはあったと思う。
しかし、なぜか自信だけはあった。それは周りにやってるライダーがいないので全て自分基準。
ステアも70cmぐらいは上れるようになっていたので、トップ選手に近づいた気分になっていた。

そして翌年の全日本選手権26インチビギナークラスに初挑戦。
ほとんどのライダーが専用車。
カンチブレーキなんかいない。リングガード当たり前だけど付いてる。サンディングしてるし…(初めてリムを削るということ知る)
大会独特の雰囲気や初めてみる光景に緊張が増し、心臓が飛び出そうだった。
有名なライダーも間近にいるし、あのクリンケンベルグもなぜか日本大会に参戦中。

下見の段階で上のクラスのマーカー位置に唖然。
70cmのステアでつけあがってた自分をここでようやく知る。
黄色マーカーは2m近くのダム型ステアを上らないといけない。しかも路面はコケの生えた水溜まりのある場所。
あり得ない。
ビギナークラスの設定は優しめではあるが、それでも足がバタバタと出てた。
1ラップ目は緊張で思うような走りは出来ず、2ラップ目から少しづつ足は出るがなんとかコースアウト出来たと記憶している。
なんとか走り終え結果待ち。その時に岡村選手に会いに行き色んな話を聞いたり、他の選手の紹介もしてもらった。

結果は2位。なんとか表彰台をゲット。

しかし、全日本という大きな大会に出て、自分の実力を知りいろんな勉強が出来た。
高校生になり、すぐにバイトをはじめ5カ月ぐらいで約15万円程貯め、専用車を買う事にした。
私は当時キャノンデールのライダー、リボル・カラス選手に憧れ、どうしてもあの真っ赤なキャノンデールに乗りたかった。
そして、貯めたお金で当時10万円ぽっきしだったキャノンデールM800(Beast of the east)を購入。
そしてそのバイクにリングガードを装着、ブレーキはMAGURAHS-33、チェーン脱落防止の為にDCDという組み合わせで最高のTRバイクを手に入れた。
ブレーキシューはウレタンゴムが良いと聞いていたので、ゴムの工場に行きウレタンゴムを下さいと頼むと、
学生だったからか、無料で板状のものを貰えた。

練習場所は毎回遠出。近所に満足のいく練習場所がなかったからだ。片道15~20キロ離れた場所をトラ車で往復。
タイヤが減るのでビニールテープを巻いて走ったりもしていた。
練習が終わると、バイトに行きスーパーでレジ打ち。帰るのはいつも深夜0:00頃だった。
親がトライアルに全く興味が無く、家計的にもそう恵まれた環境ではなかったので自転車の部品代、大会参加費、遠征費は当然自分のバイト代でやっていた。

翌年の初戦はビギナークラスからのスタート。その時は優勝でき、そして次戦から上のクラス(エキスパートクラス)へ昇格。
トントン拍子で26インチ最高峰マスターズクラスまで昇格出来た。

大会遠征は寝台特急や夜間高速バスを利用し、輪行バッグに入れていつも移動してた。
あの時は、親子で遠征してくるライダー達がとても羨ましかった。

しかし、今思うととても良い経験出来たし沢山の出会いもあった。
自分でいうのも何だが良い青春時代を味わうことが出来たと思っている。

そして両親にも感謝している。私は大会遠征する度に「優勝してくるけん!」と自信気に伝えていくのだが、母は「あんたが優勝するなら誰でもとれる!」と言い放たれる… でもとにかく「怪我にだけは注意しなさい」「気をつけて帰っておいで」と母親の愛情を今となっては凄く分かるようになった。

そして、これからが私の第二の人生が始まり・・・

またそのうち続きを書こうかな。